Chapter1 マイコン時代(1976〜1981年頃) page2
 

そうこうしているうちにTK80はBasicとケースを与えられCOMPO-BS/80となり、そして1979年PC8001の登場となるわけです。 (なんだかパソコン史になってますね。)
グラフィック画面は160x100ドット、わずか8色しかでません。このころは、キャラクター(文字)表示のプレーンと、ビットマップ(グラフィック)表示のプレーンが別々になっていました。キャラクター画面の解像度はもっと良かったと思います。

指をくわえてみているうちに、自分も働く身となり、給料をもらう立場になりました。入った会社は、テクニカルアニメーション(業界では線画と言っています)などを制作する菁映社という会社です。

   
 

入社前にバイトで一枚イラストを描いてもらったお金がこの業界でのはじめての仕事。そのお金をもらった自分はそのまま秋葉原に向かっていました...PC8001(\168,000円)を買うために。ビットインはラジオ会館にありましたが、同じ階に日立のショールームがあり、そこでベーシックマスターレベ ル3に出会います。
 
  NEC PC8001
 

HITACHI Basic Mastar Level3
このコンピューターは当時としては驚異的なグラフィック画面の高解像度を誇り、640x200ドットでした。モニターテレビは周波数を高められないためにインターレース方式をとっていました。 いわゆる残像が強く残るタイプです。 Basicを搭載し8色がでる、まさに夢のような機械でした。 最強のCPUと呼ばれたモトローラの6809を使っていたのも大きな特徴で、さまざまなアドレッシングモードを持ち、エレガントに機械語を書くことができました。 見かけは8ビットCPUだけど、内部処理は16ビットだったというのもすごかったですね。 (でも今からみると、CPUは1Mhzだし、メモリー32KBしかなかったんですから驚きです。)
 
覚えています。その当時のASCIIの表紙に「最強のCPU 6809」とあったのを。

PC8001ではなく、ベーシックマスターを買った自分は、それから夜の闇に落ちていったのです。 昼は会社で働き、 夜、家に帰るとこの機械と格闘を続けました。毎夜3時、4時位までプログラムを組んでいましたね。そのときは、コンピューターでゲームを作るのが主流でしたから、私もご多分にもれずBasicで迷路ゲームやらレーザー光線ゲームを作っては喜んでいました。 (雑誌のプログラムリストを打ち込むことはしませんでした。なんのことはない、それが面倒だったからです。)

しかし、ここで大ショックを受けるのです。
プログラムを組み、RUNさせると処理は瞬時に終わるものだと思っていた自分は、"コンピューターは処理に時間がかかる"ということをはじめて知りました。(なんというバカ!)瞬時とはボタンを押し終わった瞬間です。 2秒も3秒も待たなければならないなんてがっかりしたのを覚えています。そしてスピードを追求するために機械語の世界に足を踏みいれました。(640x200ドットを機械語で制御するとほとんど全画面を一瞬で制御できました。)