Chapter2 ミニコン時代(1982〜1989年頃) page2
グラフィック端末CGシステムの開発

マイコンでのCG制作に限界を感じていた会社側(菁映社)は、CGの仕事が増えていくことを見込んで、 次のステップを模索していました。そこにこの「サイラック3」グラフィック端末の情報が入ってきたわけです。 サイラックは、ダイキン工業や武藤工業にOEMをしていました。私たちが購入先として選んだのは、武藤工業でした。(選んだことに深い意味はありません。ただ、 初めにコンタクトをとったというだけです。)そして、茅ヶ崎の工場まで見学にいきました。当時、武藤さん (MUTOHと書いた方がいいでしょうか?)は、製図器メーカーからの脱皮を計っていましたが、ドラフターなどの商品需要が大半だったのではないでしょうか?CADシステムでも、VAXやPDP11などをホストとする 「インターグラフ」などを販売していました。 通されたショールームは、空調の利いたまさにコンピュータールームという部屋で、インターグラフや、そのグラフィック端末(「サピエンス」という名称でした)が置いてありました。そこでのデモは、まさに別世界でした。あんなに苦労していた3Dのワイヤーモデルが軽々と、しかもものすごい高解像度で回転しています。 シェーディングをかけた図形(2Dだったと思いますが)がこれまたリアルタイムで回転しています。回転がリアルタイムですよ。天地がひっくりかえるような思いとはまさにこのことです。私たちは、2つ返事で導入 を決めてしまいました。(私が決断したわけではないですけど。)

LSI-11/23 CPUボード


中央のチップがLSI化されたCPUです

ミニコンLSI11/23

ここからグラフィック端末を使ったCGシステムの開発がはじまります。 ホストコンピューターにはDECのLSI11/23を使いました。これにオリジナルソフトウェアーを開発し、サピエンス(=サイラック3)をコントロールします。 全システムで1500万円位したんではな いでしょうか?

開発言語はフォートラン。
それまで、マイコンのベーシック言語とアセンブラを少々やった人間が、この開発をするにいたったわけです。

LSI11はメモリーが512Kbもあ りました。それまでの日立ベーシックマスターLEVEL3 が32Kbですから、すごく広大な空間です。 ミニコンの世界は格が違うというのを実感しました。だってLEVEL3のフロッピーの中身(320Kb)が主記憶メモリーに入ってしまうんですから。 この世界に入り、初めてOS(オペレーティングシステム)というものを知りました。それまで雑誌などで概念は聞いていましたが、実物に触れてみてまったくマイコンとの仕組みの差に驚いたもんです。
 


話はそれてしまいますが、先日DECがコンパックに吸収され、1998年9月末日をもって日本DECは完全になくなってしまいました。ひどく残念で寂しい思いをした人も多かったのではないでしょうか? あの頃のコンピューターに関っていた人たちには、 何か特別な雰囲気がありました。まだ、あまり環境が整えられていない時代だったからかもしれませんが、 それこそ「世界を毎日塗りかえている」という実感があったのだと思います。

LSI-11/23 メモリーボード

実際使用していた1枚128kのメモリーボードです。


日本DECはミニコンの納入前に、3ヶ月をかけて研修 を行ってくれました。(もちろん販売コストに含まれているのですが...。)OSであるRSX-11M、プログラム言語、アセンブラ、FORTRANの研修を行いました。私が正規にコンピューターの教育を受けたのは後にも先にもこの時限りです。絵をかいていたコンピューターに関しては素人の自分が、こんな場所にきていていいものだろうか?とその講習の時に思いました。まさに場違い、畑違いです。 だって、他に来られているメンバーの人たちはそれ以前にちゃんとしたコンピューター(マイコンではありません)を学問として、もしくは現実に学んできている人たちばっかりでしたから...ね。

でも、プログラムは好きでしたから、実習は楽しかった。その時同席していたASRの人にもいろいろ教えてもらいました。この人のプログラミングスピードはものすごく速かった。こっちがアルゴリズムを考え終わる頃には、もうすべて終わっていました。聞くと「この程度なら特別アルゴリズムを考える必要はないから」 だそうです。すごい!